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アーキエイド事務局からの最新情報

小嶋一浩氏・インタビュー記事の公開(書籍『アーキエイド|5年間の記録』より)

小嶋一浩さん(建築家)が、2016年10月13日、57歳で永眠されました。

小嶋さんは、アーキエイドの活動にいち早くご賛同され、法人立ち上げ時には初代代表理事を務められるなど、私たちの活動において、常に中心的な役割を担ってこられました。
また、ひとりの建築家としても被災地支援にご尽力なさり、一日も早い復興に向けて奮闘を続けてこられました。

私たちは、ここに心からの哀悼の意を表すとともに、小嶋さんの被災地でのご活動の一端を紹介するため、書籍『アーキエイド|5年間の記録』(一般社団法人アーキエイド,2016年6月)に収録された、小嶋さんたち横浜国立大学大学院Y-GSAグループのインタビュー記事を公開することといたしました。

多くの方々にご覧いただけますと幸いです。

2016年11月 アーキエイド実行委員会一同


建築家は被災地で何を見たか
──横浜国立大学大学院Y-GSA 小嶋一浩スタジオの記録


小嶋一浩+大西麻貴+萬代基介+石塚直登

インタビューア:塚本由晴,門脇耕三,瀧口範子,福屋粧子,鈴木明,中島みゆき,小野田泰明



サマーキャンプ2011での小嶋一浩氏
提供=福屋粧子

連続インタビューの目的

塚本由晴──これが連続インタビューの最初になるわけですが、私としては、われわれに何ができて、何ができなかったのか明らかになればと思っています。また、仮にできなかったことがあるのなら、なぜできなかったのか補足していきたい。そのことは、今後このような活動があった時に、参考になるのだろうと思います。何かをやってみた時に、後になってから、その時取り囲まれていた現実に気付くことはよくあることです。われわれのアーキエイドの体験も、まさにそういうものだったと思います。

小嶋一浩──つまり、われわれがどのように被災地でドン・キホーテになってしまったのか、ということですね。

塚本──そういうことです。われわれが経験したことは、日本人が取り囲まれている現実を浮き彫りにするようなものでもあったと思います。ですから、われわれがどのような現実に生きているのかを、分析的あるいは批評的に語っていただければと思います。アンリ・ルフェーブルが言うところの「日常生活批判」となるようなインタビューになればいいと思っています。

 

プレキャンプへの参加

塚本──まずは経緯について伺いたいのですが、みなさんがどのように鮎川浜に入ったのかを教えてください。誰がどの浜に入るかの割り振りは、小野田泰明さんと福屋粧子さんが決めたのだと思いますが、おそらく最初に小野田さんから打診があったのだろうと思います。そのあたりからお話しを始めていただければと思います。

小嶋──私自身は5月の初旬くらいに被災地を初めて訪れました。それは、以前設計した宮城県栗原市の迫桜高校の状況確認が目的でした。その時は牡鹿半島には入りませんでしたが、石巻の市街地から女川までを1日かけて車で走り、その晩は仙台に泊まって小野田さんと話をしました。女川ではみなさんと同じように大変な衝撃を受けましたし、小野田さんとは、建築の手前の問題がいろいろあるといった話をしました。それからしばらく経って、小野田さんから牡鹿半島でサマーキャンプをやるという連絡を受けました。6月の終わり頃のことだったと思います。

塚本──そうでしたね。私もすぐに「やります」と返事をしました。

小嶋──網地島など、半島の先にある島もターゲットにしていましたから、対象は30浜で、それに対して15チームで調査をするという枠組みでした。すでに半分強の枠がノミネートされていましたが、公募で募集する枠も残し、すべての枠を決めきらずにスタートするというやり方でした。その時に、たとえば塚本さんは小さい浜4つをまとめて面倒をみなさいと言われたと思いますが、鮎川は半島の先端にあって、人口も1400人と飛び抜けて多い。そもそも牡鹿半島は、平成の市町村大合併で石巻市に組み込まれたところですが、半島の先の方はもともと牡鹿町といって、鮎川にはその町役場もあった。他の浜のような漁村集落とはほど遠い場所です。こうした場所を担当することになったのは、小野田さんから、私の事務所は幕張新都心の仕事からスタートしていますし、国内でも海外でもインフラデザインのような経験をしているので、都市的な性格が強い鮎川を担当してほしい、と言われたからでした。桃浦は「桃」がつくから貝島桃代さんに任せようだとか、冗談のようなことも言っていましたが、小野田さんと福屋さんがいろいろ考えた結果なのだと思います。
サマーキャンプの前に、プレキャンプといって、事前に2日間乗り込んで作戦を練る期間がありました。このプレキャンプには、私の都合がつかず、大西麻貴さんと石塚直登君に行ってもらいました。

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プレキャンプ(2011年7月5日)時の鮎川浜の様子
発災後4ヵ月近く経っていたが、壊された家屋が至る所に残っていた

提供=横浜国立大学大学院Y-GSA 小嶋一浩スタジオ

大西麻貴──その時は牡鹿総合支所の方から区長さんの電話番号だけを教えていただいて、まず区長さんに会いに行って。それをきっかけにしてわらしべ長者のように、今でもお付き合いのある漁協の方や漁協の女性部の方などに会うことができました。ぐるっと歩いて巡って、次はサマーキャンプで会いに来たいと思っていますとご挨拶をしたり、キャンプでリサーチすべき場所を洗い出したり、寝る場所がないかヒアリングしたり。プレキャンプではそういうことを行いました。その時点では、鮎川は他の浜と違って捕鯨が盛んだったこと、また「漁業」「捕鯨業」「観光業」という3つの産業の軸があったことなどを伺いました。そういう意味でも、他の浜とは違った印象をもったと記憶しています。

塚本──最初に会った区長はどなたですか?

石塚直登──最初にお会いしたのは3区の区長さんです。鮎川には全部で6つの区あって、その取りまとめのような役割をしていたのが3区の区長さんでした。3区は被害がほとんどなかったのでお会いできたのですが、2区と4区は被害が大きく、今は区がなくなってしまった区の区長さんは、当時はまだ公民館の避難所にいらっしゃって会うことができました。

門脇耕三──そもそもなぜ大西さんと石塚さんが担当することになったのですか?

大西──石塚君は立候補だったんです。

門脇──小嶋さんが学内で募ったんですか?

石塚──たしか「サマーキャンプに行きます」というアナウンスが、Y-GSAの講評会でありました。僕は4月と5月に石巻へボランティアに行ったのですが、その後も何かできないかと思っていて、真っ先に手を挙げました。その時、小嶋スタジオの設計助手が大西さんだったので、大西さんが参加したのはそのつながりもあったと思います。

小嶋──Y-GSAはそういう世界なんですね。手がかりが何もないというか。その時は私も大西さんもY-GSAに入ったばかりだったのですが、その直前に地震がありました。サマーキャンプの話があった時にも、まずはどうやれば良いか北山恒さんに相談して、「インディペンデント・スタジオ」という枠組みがあることを教えてもらったので、それを利用することにしました。半年くらいは勝手がわからない同士でやっていたのですが、私は住民やお年寄りにヒアリングするのは苦手なので、大西さんに手伝ってもらいたいと思い声をかけたんですね。大西さんがそうしたことが得意かどうかはわかりませんでしたが、やってみたら地元の方々と話をするのがものすごく上手かった。

塚本──被災した区長さんとそうではない区長さんに温度差はありませんでしたか?

大西──みなさんには、私たちが思っていた以上に「この非常事態をなんとかしなきゃいけない」という気持ちがあったようで、パワフルな印象を受けました。漁協女性部の方も体育館の前で復興市をやっていて、なにか新しいことを始めたいという気持ちですごく輝いていたのを感じました。公民館に避難されている4区の区長さんにご挨拶に行った時も、やはり外から来る人に対して迎えたいという気持ちがあったようで、初めて行ったのにいろいろ丁寧にお話ししてくれました。

瀧口範子──それはいつ頃のことですか?

大西──7月の5、6日です。一番厳しかったのが漁協の方で、突然やってきて私たちの生活がわかるのか、と言われました。でも、じつはその方とは今でも関係が続いています。後から来る学生のために、キーパーソンとなる方々の写真を撮らせていただいて資料としてまとめていたのですが、その方だけは「もし次に会うことがあればその時に撮りましょう」とおっしゃって、写真を撮らせてくださらなかったのを覚えています。
最後にボランティアセンターに行ったのですが、そこで被災直後からボランティアに入っていた方に会って、またすごく怒られました。私たちはどのように被災地に向かうべきかもわからず入っていたので、そんな簡単なものじゃない、と怒られたのですが、それで私たちは最終のバスを逃してしまって。でも、とても終バスがありますなんて言える雰囲気ではありませんでしたから、これは徹夜で聞かなくてはならないぞと思っているところに、福屋さんが迎えに来てくれたんです。あの日は暑くて、私は熱中症で倒れてしまい、とにかく大変でした。

塚本──プレキャンプの報告を受けた時の小嶋さんはどのようなことを思いましたか?

小嶋──大変そうだな、と思いました。とくに難しいと思ったのは、場所によって被害が大きいところとほとんどないところがあったことですね。そういう地域の中に入っていくのは大変そうだな、と思った記憶があります。

塚本──私が最初に一番難しいなと思ったのが、お話しする地元の方がご家族を亡くされているかなど、個々の被害状況がわからないことです。外から来て話をするのは大変だと感じました。

大西──鮎川浜は亡くなった方が少なかったので、そういう意味では他の浜に較べてシリアスではなかったのかもしれません。

塚本──私はそこが一番難しかった。話を聞いているうちに、うちの浜はじつは亡くなった人はあまりいなかったと言われて少しほっとすることもありましたが、最初に「被害はどうでしたか」とは聞けませんからね。われわれのチームでは、まだ何もしてない段階での最初の大きなハードルがそこでした。

瀧口──それは、家族を亡くしている方と建築の話などしている場合じゃない、ということですか?

塚本──いや、目の前にいる方がどのような精神状態なのかがわからない、ということですね。前向きな話をしなくてはならないし、そのために行っているのですが、どう話せばいいのかわからず最初は悩みました。そういう場に集まっている方は前向きな方だろうとは思うのですが、秘めた思いは見えませんから。

瀧口──そういう場というのは、サマーキャンプのことですか?

塚本──はい。サマーキャンプでは、それぞれの浜で説明会をしましたので。区長さんに連絡して、地元の人にも予定を組んでいただいて行いました。

小嶋──少し補足をしておくと、サマーキャンプを行ったのは、当初の避難所だった学校から、仮設住宅にみなさんが移り終えた直後です。そうでないと半島に泊まれるところがなかったので。それで2つの学校、つまり旧大原中学校と荻浜中学校を貸していただいて、ひとつの教室の片側を私たちが、もう片側を塚本研究室が使って泊まり込んでいました。私たちが泊まった旧大原中学校には電気が来ていましたが、荻浜中学校には電気が来ていなくて、曽我部昌史さんは夜中に作業する時にヘッドライトをつけて作業していましたね。サマーキャンプの時はそういう状況でした。

塚本──浜の人には「あんなところで寝てるの?」と笑われましたね。

小嶋──いろいろな国のラベルが貼られた救援物資があって、賞味期限が切れるギリギリくらいのものもあったのですが、職員室で調理をしてもいいということになっていたので、みんなでいただきました。その他には、当時はCOCOストアというコンビニが半島で一軒だけ営業していて、それが生命線でした。

塚本──そうでした、COCOストアは鮎川の方が経営していましたね。
さて、サマーキャンプではどのようにインタビューやヒアリングをやったのか、あるいはその時にどのようなツールを持って行かれたのかを教えていただけますか?

小嶋──鮎川は規模が大きいので、ある程度は作戦を立てて行かないとうまくいかないと思い、大西さんや石塚君が帰ってきた後に相談をしました。その時に3つのルールがありました。「アーキエイドは住民の側に立つこと」「スピードは落としてはいけない、つまり決まったことは蒸し返さないこと」「そもそも論をやらないこと」です。住民側に立つということだから、あらかじめ案をつくって押し売りをするようなことはしないことに決めました。
といっても、15チームもあって、互いによく知ってはいるけど一緒に働いたことはないし、普段と違った状況に対峙したときにどんな振る舞いをするのかもわからない。福屋さんとしては、5日間合宿をするとお互いのわからなさ加減がわかるだろう、という意味合いも込めていたのではないかと想像しています。日帰りでちょっと来て帰るようなこともできないわけで、実際、人によってはずっと浜に入って呑んでいて、避難所に帰ってこないなんて人もいました。

塚本──キャンプに行く前にも何度か集まりましたね。

門脇──事前の会合で小野田さんはこう言われていました。あの当時は建築家がどんどん被災地に押しかけて、自治体や住民に勝手な提案をしていて、しかもそれが実際の問題とは相当乖離した提案だったりするわけで、その対応だけで自治体が困っているし、親切の押し売り状態になっていると。つまり被災地では、建築家は迷惑な人種と認識されかけているから、われわれがそうなってはいけないときつく言われた覚えがあります。

塚本──その話があったのはいつの会合でしたか?

福屋粧子──サマーキャンプの説明会を、東京工業大学をお借りして6月30日に開きましたが、その時に小野田さんとスカイプでつないだような気がします。そこでしっかりと説明した上でプレキャンプをして、それでもやるという人にお願いすることになったのだと思います。その時は塚本さんが司会をされていました。

瀧口──それまでに小野田さんや福屋さんは現地に入ってらっしゃったんですか?

福屋──小野田さんはもともと建築計画の先生ですので、いろいろな自治体に請われて入っていました。私にはそういうことはなかったので、小野田さんがおっしゃっている状況を理解して、みなさんに伝えることに努めていました。

小嶋──勝手に絵を持って行った挙げ句、「なぜわからないんだ!」と怒り出す建築家もいたと聞きました。逆にきちんとした提案をして、住民に喜んでもらえたのに、結局お金がつかずにそれっきりというのも良くない。それは今でこそ理解できる話ですが、日本という国は官僚的というか、行政の理解を得て、手続きもきちんと踏まないと、お金は1円も動かない世界なんだということに、われわれ建築家も当時はすごく無知でした。

門脇──また、建築家がある地区の住民に請われて提案し、住民の望むような提案をしたものの、行政はもっと大きな範囲で考えていますから、当然どこにお金をつけるべきかには優先順位があって、そういったことを理解せずに建築家が提案するのは、かえって自治体に混乱をもたらしかねないということも言われました。そういうお話しを聞いて、「住民の側に立つ」ことの困難さが少しだけわかったような気がしました。

 

鮎川浜におけるサマーキャンプでの取り組み

塚本──鮎川浜でのサマーキャンプはどのように進めたのですか?

小嶋──1日目は調査で、学生たちは10人くらい参加していて、私も含めてとにかく歩き回りました。

福屋──鮎川浜だけ人数が多かったんですよね。

小嶋──何人で行くかは難しい問題でした。旧牡鹿町役場、今は牡鹿総合支所と呼ばれている所のキーパーソンにヒアリングも行いました。これも普段は建築家がやらないことですが、みんな「アーキエイド」の腕章を巻いて行きました。
2日目は漁協に行っています。この時、私は何回も訪ねたのに、先ほど大西さんのお話にも登場した漁協参事には会うことができませんでした。被災した住民はほぼ全員仮設住宅に入っているので、学生が2人ずつペアを組んで、仮設住宅にも避難所となっていた公民館にもそれぞれの家にも行きました。同じく2日目から鮎川全体の模型を置いてヒアリングをしています。地形と被災前のすべての建物をつくった模型で、被災した建物は透明な板の上に置き、取り外すことができるようにしました。白模型で道だけグレーにし、提案をするためのものでなく、状況を示すだけのものです。小さい浜だと住民全員で囲めるんですけど、鮎川ではそういうわけにもいかないから、公民館の2階にこういうものがあると行政の無線で呼びかけてもらって、住民の方に見てもらいました。

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被災した公民館の一室を借りたヒアリングの様子
提供=横浜国立大学大学院Y-GSA 小嶋一浩スタジオ

瀧口──その模型はいつ頃つくったのですか?

小嶋──プレリサーチの後、模型をつくるならどのくらいの大きさがいいかというようなことを話して、1/1000の模型をつくりました。このスケールだと建物は粒みたいなものになりますが、それでも畳3枚分くらいの大きさになった。

瀧口──模型は車で持ち込んだのですか?

小嶋──はい。

鈴木明──他の浜も同じように進めたのですか?

塚本──いや、浜によって違います。私のところは4浜担当していましたので、つくりきれないなと思い、模型ではなく図面を持って行きました。

中島みゆき──仮設住宅を訪問したということですが、その時はどんなことを聞いたのですか?

大西──基本的には、模型のある公民館でお話しを聞きますということにしたのですが、中には直接出向くことは難しい方もいらっしゃいました。そういう方へのヒアリングを避難所で行う、というやり方だったと思います。

塚本──ヒアリングの内容はどんなものでしたか?

大西──A4くらいの質問用紙をつくりましたね。

小嶋──記録によれば、氏名、性別、生年、元住所、職業、現在の住まいの状況─たとえば住宅は津波で全壊、集会所で生活、などといったことを聞いています。また、行政に対して思うこと、行政に望むこと、住む場所の希望も聞いています。

瀧口──それぞれのお宅は効率的に回れるものなのですか?

石塚──おばあちゃんの家で30分や1時間話し込んでしまったりしていました。そこで、毎回お茶を出されるのでトイレに行きたくなってしまったり。鮎川の全戸を回ると数があるので大変でした。その時点では100戸弱程度の数だったと思います。
説明も腕章をつけた上で、こういう目的で来ていますというところから説明します。われわれが何者なのかをまず理解してもらうことが重要でした。その時は、われわれは石巻市と連携していて、大学の研究室と学生が復興に関する調査に来ています、という言い方をしたと思います。
当時は、「どこに住みたいですか?」などと聞いても、まずは仕事なんだよ、と言われたりしていました。そうした会話も含め、すべて記録を取りました。

瀧口──先ほどの模型はアーキエイドでつくり方など決めていたのですか?

小嶋──各チームは自分の担当浜に行ったわけですが、それぞれ状況も違いますし、そういうわけではありません。われわれは手ぶらで行くよりは何かあったほうがいいだろうと考え、それが白模型だったんです。ここでいろいろなやりとりをして、ああそうなのかと思ったのは、そもそもみなさんこんな上から見下ろすような模型を見るのが初めてなんですね。それで、まずは皆さん自分の家を探します。何とか自分の家が見つかって、そこに母屋だけじゃなく物置なんかもつくってあると、そのことに結構感動してましたね。だんだんと模型と記憶が一致してくると、どんどん意見を言ってくださいます。その意見をポストイットに書き留め、整理していきましたが、模型を目の前にしているからか、割とまちづくりの視点の話が多く出ました。でも産業のことを考えるもの大事だと小野田さんに言われていましたので、生業についてもたくさん聞いています。
まあ5日間だけということもあり、大急ぎでこういうことをやったのですが、ヒアリングをしたあとに実地調査をしないと何を言っているのかわからないということもありました。そのため、4日目には住民が言ったことを確認する作業をしています。たとえば、堤防道路が良いという意見があれば模型に堤防道路を置いてみるとか、高台移転地はこことここが良いと言われたら、近くに行って確認し、模型に反映するといったことですね。そうすると、住民は復興後の姿を模型で見られることになるわけですから、それだったらこっちの方が良いとか、それはダメだとか、いろいろな意見が出るわけです。最後は学生たちが徹夜で模型を仕上げて、ドローイングも描いて、最終日には他のチームとともに住民に発表しました。

門脇──模型を使ったコミュニケーションはうまくいきましたか? サマーキャンプ後にアーキエイドのメンバーで集まって意見交換し、反省をシェアしました。その時に、住民の方々は鳥瞰的な視点で自分の日常体験を想像することに慣れてないから、模型って使えないところあるよねとか、色が塗っていない白模型ってまったく想像ができないからダメだよねとか、そういう議論をした覚えがあります。

塚本──でも模型があると、その周りに人が集まってきますよね。それまでは、そういうことがなかなかできなかったらしいのです。われわれも話を聞いたことをスケッチにまとめたのですが、それを見せたら周りに人が集まって、わいわい言い出すということがありました。

小嶋──プリンターが使えるような環境ではなかったし、そういうスピード感でもなかったですからね。夜中に学生がスケッチを仕上げてくれたのですが、それがとても好評で、住民にも伝わったようでした。

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サマーキャンプ2011で作成したスケッチの一部
嵩上げした道路を防潮堤と兼ねる提案が既に盛り込まれていた

提供=横浜国立大学大学院Y-GSA 小嶋一浩スタジオ

大西──スケッチって会話のようなところがありますね。

小嶋──建築家らしい格好いいドローイングを描かなかったのも良かったのだと思います。最終日の説明会は「講評会」と呼んでいましたが、その場にドローイングと模型の両方があったのはとても良いことでした。
また、模型を使ったヒアリングをこの場所でやって良かったことは、昔の写真を持ってきてくれた方などがいたことです。その時に持ってきてくれた写真を全部スキャンして保存してあります。捕鯨で栄えた時は人口が5000人─つまり被災時の4倍以上いた。当時、今回津波をかぶったところは全部田んぼだったそうですが、減反政策と捕鯨中止で田んぼだったところに家が建ち、そこがみんな流された。そういう話は昔の写真を見せてもらいながら聞きました。

大西──昔は映画館があって、夏はみんなが日傘をさして歩くような町だったそうです。

小嶋──昭和20年代から30年代くらいが最盛期で、金華山観光もその頃がピークだったということです。
話を戻すと、最終日には鮎川小学校に全チームが集まって、全浜の住民も集まって、NHKなどいろいろなメディアの取材も来ていて壮観でした。ひと浜ずつ順番に発表したのですが、小野田さんがゲストクリティックとして藻谷浩介さんを連れて来ていて、具体的なお金や産業の話を聞いて、私たちもなるほどなどと思いました。おそらく半島の住民が一堂に会したのもその時が被災後で初めてでしょうし、これからの浜の姿を模型やドローイングで見るのも、議論するのも初めてでした。

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サマーキャンプ2011最終日の講評会の様子
浜の未来像を震災後初めて住民が議論した

提供=横浜国立大学大学院Y-GSA 小嶋一浩スタジオ

塚本──私がこの時に衝撃を受けたのは、やはり浜同士の力関係が強いということです。要するに浜の中にも勢力関係があるし、浜間にも勢力関係がある。私が担当した裏浜の人たちは、基本的にはこういう所に来ないんです。どちらかといえば、自分たちはひっそりと住んでいればいいんだ、という考え方があるみたいです。かろうじて区長さんが、誰も行かないんじゃかわいそうだ、と来てくれました。その時に、これはもう浜ごとにまったく違うんだということがよくわかりました。

瀧口──それはどうしてなのですか? 生産基盤の強さが違ったりするのでしょうか?

塚本──そもそも人口が少ないんですよ。それから半島の東側の浜は――これを裏浜と呼ぶわけですが――日当りが悪いんですね。おそらく、歴史的にも半島に後から入ってきた人たちが住んでいるのだと思います。

中島──大谷川出身のおばあちゃんなんて、「うちは影の浜だから」なんて言うんです。こういうことが復興の考え方にも影響するのでしょうか。

塚本──たとえば、お酒もそんなに呑まないですし、ばか騒ぎもしません。だから「観光をやりませんか?」と提案して乗ってくるのは表浜の人たちで、裏浜の人たちは「いやあ、車でたくさん来られても困るし」という感じなんですね。
半島の住民の人たちも、やはりまずは鮎川浜など、重要な場所の復興が優先されるべきだと考えているようでした。たとえば、港湾施設の復興も当然そうあるべきなんですね。裏浜の人口が少ないところは後回しでもいいという感じで。

瀧口──そういう話は小野田さんが初めにおっしゃらなかったんですか?

塚本──そういう話はしていません。おそらく小野田さんもわかってなかったと思います。

福屋──裏浜は被災率がものすごく高くて、女川の町が全部なくなってしまったのは有名ですが、全部の家屋が押し流されてしまったので、本当に何もないんですね。砂埃しかたってないようなところで、そういう厳しいところを信頼できる塚本さんにお願いしたい、という気持ちが小野田さんにはあったと思います。

塚本──もともとの風景がわからなくなってしまっていましたね。裏浜は太平洋側で、震源地に近かったですし、回り込みがないだけに、波の勢いがすごかったんです。だから広大な砂浜が広がっているだけで、がれきさえ無いという状況でした。がれきがありませんねと言ったら、全部この砂の下に埋まっていると言われました。
脱線しましたが、5日間やってまとめた案に対する住民の方々の反応はどうでしたか?

小嶋──まあ大体こんなものかという感じを受けたのも事実です。堤防道路だとか何だとか言ったけど、私たちもそこまで強い主張は入れていませんでしたし。ただ、実際には高台のつくり方に強いメッセージを込めていました。というのも、災害公営住宅の出口戦略について、事前に小野田さんと議論をしていたからです。要するに公営住宅をみんなが建てる方向に議論を誘導しすぎると、将来誰も住まなくなって、維持管理費だけがかかってしまうという事態も起こりうる。そうすると、いつか払い下げが起こるかもしれません。そのため、この時からすでに払い下げやすい場所を選んで、高台移転地を考えていました。
実際、鮎川にはまだ公営住宅が建っていませんが、その後に釜石の尾崎白浜という小さな浜で私たちが設計し、できあがった公営住宅では、80歳を超えた単身の方が1軒ずつに入居します。つまり数年後には次の入居者を探さないといけない可能性があるわけですが、その浜では、すでにみんな家を持っているんですね。そういうことも考慮して、鮎川では、敷地は決まった広さがあるので意外と広いんだけど、建物は小さく建てて、敷地もできるだけ斜面のままの部分を残せるような計画をサマーキャンプの後に考えました。なるべくひな壇造成の郊外住宅地のようなものにならないように工夫したわけです。その時はトップカットのようなもっと荒っぽいことをやるなんてことも知りませんでした。


斜面を残した宅地造成の初期のアイデア
海を臨む、互いの気配を感じるといった点はその後もプランに盛り込まれている

提供=横浜国立大学大学院Y-GSA 小嶋一浩スタジオ

塚本──トップカットとは、丘の上をずどーんと全部切ってしまうやり方のことです。

小嶋──そういうことをあらかじめ住民にインプットしておかないと、行政とも話ができないだろうということは、当時の私も思っていました。だから住民がこういうものを望んでいると言えるようにして、それをてことして高台造成のあり方を考える、という戦略を立てました。

塚本──われわれは石巻市に頼まれてやっているというよりは、ボランティアとして入っていると言った方が近い。補助金から若干のお金はいただいていましたが、当時は半島部の住民の声を聞くところまで手がまわっていなかった行政のお手伝いを買って出たという位置づけです。それもあって、われわれがつくる模型や図面は、基本的には行政の方針とは独立したものでした。つまり、あくまでも住民の声をまとめた将来のイメージ図ということになっていましたので、要望書に近いものです。しかし、そういうことをやっているうちに、行政の方針と噛み合ってくることもあるかもしれない、という期待ももちろんあったわけですが。

福屋──ちなみに、津波で流されてしまった方の家を、山すその高い場所に移転させるのが、いわゆる高台移転です。

塚本──その高台移転に使われるのが、「防災集団移転促進事業」という制度です。これを略して「防集」と言います。奥尻島や玄海島、山古志村など、過去の災害でも活用されました。今回の災害でも、海辺の集落では生活の拠点を上にあげなくてはならないだろうということで、防災集団移転で高台に住宅地をつくることになったわけです。制度上、土地までは行政が用意して、300平米以内であれば30年間無償で土地を貸す、もしくは、住民が買い取っても良いということになっていました。
むろん住宅を建てる余裕がない人もいるので、その場合は公営住宅を建てるわけですが、行政としてはできるだけ自力で建ててもらいたい。その計画をするにあたっては、何世帯がその場所に戻ってくるのかを確定しなくてはならない。税金を投入するわけですから、つくり過ぎることが一番懸念されますので、一年に一回くらいアンケートを取り、その情報も逐次更新していきます。ただ、住宅をつくるまでには住宅基盤や道路の整備からはじめる必要があるため時間がかかり、戻りたいと言っている世帯の数はどんどん減っていきました。たとえば、年老いて病院に行きたいという人はこういう土地には住みにくいわけです。そこで、子世帯が石巻市街や仙台に住んでいる老人世帯などはそちらへ移り住んでしまう。

石塚──今回は防集の条件緩和もありましたね。10戸以上が住み続けると言わないとできなかったのが、5戸以上でもできるということになった。

門脇──ただ、サマーキャンプの時は防集なんて言葉も知りませんでしたね。新聞などを見て、高台移転をするんだろうということは何となくわかっていましたが。

塚本──その高台移転の候補地を、住民の人たちと一緒に歩いて検討するのがサマーキャンプの重要なミッションでした。

福屋──石巻市は2005年に広域合併をしているので、石巻市街地の人たちは、牡鹿町のことはあまりよくわかっていないらしいのです。そういうこともあって、半島を丁寧に調査してくれると非常に嬉しいというようなムードは当時からありました。ただ、私の個人的な反省としては、その調査をどのように活用していくかについて、曖昧なままだったことです。

小嶋──調査の成果は十分に上げられたと思います。小野田さんは「奇跡の5日間」と呼んで、海外でも紹介していました。

門脇──ただ、制度的なことは全然わかっていませんでしたね。わかっていなかったから、「半島支援勉強会」という自主的な勉強会がその後に始まることになります。

 

半島支援勉強会の発足と行政とのやりとり

塚本──半島支援勉強会を始めようということは、貝島が急に言い出したんですよ。キャンプに行って、みんなでわーっと調査をしましたが、参加者は東京の人が多い一方、重要情報はみんな仙台から来るんですよね。このままだと情報共有もできないし、仙台チームと東京チームの情報伝達にも手間がかかってしまう。今後も牡鹿半島に関わっていくのであれば、定期的に勉強会を開いて情報を共有し、それぞれの浜で起こっていることについても報告しましょうということになったんです。そして1回目を2011年12月3日にアトリエ・ワンで開催しました。

福屋──キャンプからずいぶん間が空いているようですが、その前に「新・港村」で展示をしましたね。サマーキャンプの成果を石巻市に資料として提出することは決まっていたのですが、この成果を関東で発表した方がいいだろうということで、小野田さんがBankARTのキュレーターに説明に行ってくれました。

小嶋──「新・港村」というのは横浜トリエンナーレの一環として開催された展覧会で、横浜は新港埠頭の空き倉庫のスペースを利用して、クリエーターが集まって都市のような展示をしようというコンセプトでした。

福屋──倉庫の一区画をあてがってもらって、関東の学生チームがブースをつくり、その中で2チームずつが1週間交代で展示を行いました。サマーキャンプの成果をパネルにまとめ、模型もつくり直し、トークショーもしましたね。

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新・港村のブース展示(左)と拡大展示(右)
拡大展示の展示構成はY-GSAが担当した

提供=横浜国立大学大学院Y-GSA 小嶋一浩スタジオ

塚本──トークショーは「被災地の漢たち」というタイトルで、被災地から被災された方をお招きして、われわれがひとりずつインタビュアーを務めました。被災地の現在やこれからについてお話をしてもらうというものでしたね。

小嶋──アーキエイドは「震災に関する知識の集積と発信」も目的に掲げていますので、その一環としての活動です。
ただ、そういうことをしている間も、鮎川とは連絡を取り続けていて、復興商店街をどうするかをすぐに考えて欲しいとご要望いただいていました。最終的には「牡鹿のれん街」としてプレハブ小屋が並んだようなものができあがっていますが、その時は私たちもどんなものか想像がついていなくて、一応は絵を描きました。
RC3階建ての東北電力の寮があり、場合によってはそれを払い下げてもらえるかもしれないということで、1階は被災していましたが、建物としては問題がなかったので、なんとか活用できないかと考えていました。2階から上は被災していなかったので、とりあえずは一時的なハウジング、あるいは建設労働者の宿などとして活用して、1階はレストランにしてはどうかという提案です。これも結局払い下げスキームが全然うまくいかず、実現していません。そういう提案はたくさんあるのですが……

塚本──復興商店街の検討依頼は商店主の集まりからあったのですか?

小嶋──いや、支所からです。鮎川の場合は人口が多いので、個別の住民から何かを頼まれることはその当時はなくて、すべて支所からの依頼でした。それはどれもコンサルにお金を払って頼むというレベルのものでもないので、あなたたちも絵を描けるんでしょ、といった具合で飛びこんでくる。だから、話のフレームがよく見えないまま、行き当たりばったりで学生たちとやっていました。ずっと後になってわかったことですが、国交省や復興庁の補助金には40種類のメニューがあって、実際にはそのどれかに乗らないと、自治体の持ち出しになりますので、まぁ実現はあり得なかったわけです。
そういう話でいえば、たとえば堤防道路は仙台東部道路が津波をとめる役割を果たしたことで有名ですが、堤防を管轄している部署と道路を管轄している部署は違っていて、補助金のメニューも違うので、実際はまとめてつくるのが難しい。だから防潮堤をつくっておいて、それに腹付け─つまり内陸側の法面にもう一回土を盛って、その上を道路にする、ということならできるらしいです。これならできるという意見をもらうのにも一年くらいかかりましたが、道路の方を堤防より少し低くしないと認められないという。出元の違う補助金のメニューを合体させるというのは、それくらい難しいのです。
高台移転に関しても、日本では土地は必ず誰かのものですから、土地台帳を延々検索して、候補地の所有者を割り出すわけです。しかし、田舎では登記がきちんとされていないことも多く、所有者が三世代くらい前の人の名前になっていたりすることもある。そうなると、相続権者すべてと交渉しなくてはなりませんから、非常に時間がかかる。何事も非常に手続きが多くて、非常に労力を割かれていました。

中島──小嶋さんたちが復興補助事業に約40種類のメニューがあると知ったのはいつ頃ですか?

石塚──それこそ9月か10月で、市役所の基盤整備課に通いだしてからですね。

小野田泰明──それまではどういう風に復興を事業化するかというスキームが不明快でした。今は復興交付金で動かしていますが、当時はそのスキームもなくて、基本は復旧事業だけ。つまりもともとあったものを直すというものです。復興交付金を使えそうだという情報が流れたのは、秋の国会にその案が通った後で、確定したのが10月か11月くらい。それが具体的にどういうかたちで使えるかということが明確になったのは、つまり40の事業が確実なかたちで出たのは年明けくらいでした。ただ、こういうことができそうだということは秋頃にはある程度先行してわかっていました。

瀧口──行政とのやりとりはサマーキャンプの頃からあったのですか?

小嶋──鮎川では旧牡鹿町の町役場が総合支所になっているので、基本的なコンタクトパーソンは行政の人でした。また、鮎川は処理せねばならないイシューも多く、行政とのやりとりは必須でした。補助金のメニューでいうと、「漁業集落防災機能強化事業」略して「漁集」というものがあります。小さな集落だと、防集と漁集でほとんどのことがカバーできてしまうのですが、鮎川くらいの規模になるとそうもいきません。それ以外にも、東北電力の寮など使えそうなストックもあって、とても複雑な検討を要しました。

小野田──みなさんに牡鹿へ入ってもらおうと決めたのは私と福屋さんですが、入っていただいてから、石巻市は複雑だということが徐々にわかってきました。
石巻市は石巻、牡鹿、雄勝、北上、河北、桃生、河南の6市町が広域合併したところで、震災が起こったのは合併から7年目でしたが、まだ昔の町の単位が色濃く残っていた。だから昔の町役場は総合支所というかたちで残っていて、昔の町の人の中には、自治権を確保したいという気持ちもあったのだと思います。一方で、本庁といいますけど、旧石巻市を中心とする人たちは、一つの自治体なのでそこを調整したいと思っている。ですから、総合支所の人たちには、小嶋さんという建築家を使って、影響力を行使したいという思惑もあったのではないかと思います。一方で本庁は、そんなことを認めていないわけですから、結局は本庁が雇った土木コンサルに押さえつけられるかたちになった。

鈴木──非常に込み入った話があるんですね。そういう検討は一般的にはコンサルがやるのでしょうか。

小野田──コンサルの能力によるところもありますね。発災した時に、これはとてもじゃないけど自治体の力では復興できないという危機感が国交省都市局にはあって、直轄調査というかたちで、それぞれの自治体にコンサルを割り付けたんです。ただ、石巻市の場合は、本庁と総合支所の複雑な状況がある。さらに、本庁の中でも二系統の部署ががんばっていた。包括協定の関係からわれわれと関係の深い復興対策室、いまの復興政策部を含む政策系の部局と、事業系の部局、土木の技官がいる当時の建設部の両方です。建設部には直轄調査のコンサルがつき、復興対策室にはそういう技術的バックボーンがないので、われわれ東北大学がついた。ところが、事業を全部握っている建設部の方が圧倒的に力が強く、みなさんにもご苦労をかけて、申し訳ないことをしたなと思っています。もちろんどちらの側も復興に燃えるすばらしい方々なわけですが。

一同──(笑)

 

土木コンサルとのやりとりと高台移転地の検討

塚本──われわれは、その土木コンサルと一緒に高台移転の検討やることになったのですが、それはいつ頃のことでしたっけ?

石塚──2011年の8-9月に基盤整備課と一緒に現地踏査に行かないといけないという話がでて、10月に住民説明会が順次ありました。その時に、防災集団移転というスキームになりそうですと住民にはじめて石巻市が説明をしました。
そのパンフレットが初めて住民に配られたのが10月初旬くらいで、その頃に、移転する場所と、どういう造成のしかたをするかを、基盤整備課とその下にいたコンサルと話し始めました。その際、10以上もある大学チームが個別にアポイントを取ろうとして、基盤整備課と擦り合わせするのがえらい大変だということがわかってきた。市もそのコミュニケーションコストを嫌がりだしたので、どうやって情報を整理し、集約化するかを考え、まずフォーマットを共有しなければいけないよねという話になったんですね。そうなると、そもそものスキームも共有しなければいけないという話にもなり、勉強会をやることになりました。

小嶋──住民説明会は、正確には意見交換会という名前でした。そこで出た意見と踏査の結果をまとめ、土木コンサルから高台移転地の計画案が出てきました。そのコンサルも単独ではやりきれないので、さらに下請けを使っているわけですが、鮎川ではかなり戦い、最後はコンサルとも下請けとも仲良くなれました。
彼らの発注者は行政なので、基本的に専門用語を使って話します。かつ、土木の設計は国が決めた仕様に沿って進めれば、結果として、お金は青天井になってもいい。建築家はお金が合わなければ何度も検討をやり直しますが、そういう回路がないのが土木の世界です。たまたま発災の半年前に始まった広島のアストラムラインの駅の仕事で、そういうことはよくわかりました。
いずれにせよ彼らは、住民への説明でも「L1」「L2」などといった言葉を何の説明もなしに使います。L1・L2とは、ここでは想定する津波のレベルを表す言葉ですが、住民が説明を求めても、彼らにとっては自明の言葉なのでわかりやすく説明できない。出してくる絵も素っ気ない。図式に近くて完成した空間を想像できない。そういうわけで、住民と土木コンサルでは話にならないので、私たちがインタープリターとして入ることになった。ただ、われわれも土木のことはわかりませんから、本当に必要に駆られ、半島支援勉強会が始まった。筑波大学の渡和由先生に来ていただき、土木流の描き方や色の使い方を習いましたね。あれは本当にわかりやすかった。当時は本当に実践的な勉強をしていて、アーキエイドに参加した学生たちもそういう土木フォーマットの図面が描けるようになりました。

福屋──その前段で、われわれが描いた図面は図面じゃないと土木コンサルに言われましたね。こんな図面じゃ読めないし取り扱えないという様な話が出てきたので、技術的なことも含めて勉強しないと、これ以上お手伝いできないということもありました。

小嶋──役所の人や住民は、私たちの方がよっぽど良くわかると言っていましたけどね。土木コンサルは日本の特殊な状況の中で、アマチュアの相手をまったくしないでいた。逆に土木の図面がわからないと、「お前らはなんだ」という風になる。ところがさすがに住民にはそんなことを言えないので、立ち往生していたわけですよ。

瀧口──もしアーキエイドの存在がなかったとしたら、住民たちは、わからないけどそんなものなのかな、という感じで進んでしまったのでしょうか?

小嶋──大半のところが、事実その様になってしまっています。

小野田──ただ集落は自治が強くて、区長さんがしっかりしているところは自分たちで状況を理解して、場所を確保したという事例はあります。石巻の場合はみなさんに比較的早く入っていただいて、いろいろ議論ができたので良いこともいっぱいありました。

塚本──しかし、われわれが山の中に入り、高台に登って、ここがいいですねと提案し、住民もそこがいいと言って決めたところが、土地の所有者を調べ始めると、あまりにもたくさんの地権者がいて使えない、ということもたくさんありましたね。

小野田──そういう場所はだいたい畑だった。要するに、昔は今のようにスーパーもないし物資も届かないから、日々食べる野菜を集落内で自給しなければならない。なので、みんなで山のちょっとした広がりを開墾して、入会地にして畑にしていた。だから所有者がたくさんいる。

塚本──だけど今は畑をやめてしまっているので、ある時期から杉を植えているんです。だから行くとだいたいが杉林になっている。

小野田──木を植えたのは戦前なので、たいていは忘れ去られた土地で、古老の何人かは知っているが、あとは知らないとなる。

塚本──土地の所有に関してわれわれはほとんど何もできないので、非常にもどかしいところでした。実際、役所の人たちもそこで一番苦労した。だから決まったことがひっくり返されて、住民の意見としては決まるんだけど、現実化しないことは何回もありました。

小野田──高台移転は任意事業なので、堤防や県道と違って土地の強制収容ができない弱い事業であるというのも関係しています。

小嶋──今の地方には誰も動かせない土地が膨大にあります。積極的に登記するようなものではない土地、つまり不動産投資の対象にはならない土地がいっぱいあって、そういうところで何かやろうと思っても、誰も触れられないようになっている。

小野田──入会地は近代法制国家として立つ以前の産物なので、よって立つ法律が十分でない。それを今使おうとしたらえらいことになる。

門脇──今の日本では土地は所有されるものですが、財産権は憲法で保障されているので、公の目的のためといっても非常に触りづらい。村落共同体の頃と現行の制度が齟齬を起こしている部分ですね。

小野田──後に法律が変わって、一定の公告期間の後に申し出がなかったところについては、その権利に対する保障は事後でもやれるということになりました。しかし1年間はそれでも長いですし、この制度ができたのはたしか2013年で、それまでは打つ手がありませんでした。

小嶋──本当はもっとどんどん決定ができると良いのですが、行政の人たちがみんなパソコンで土地台帳を調べているので、私たちも協力できないのです。個人情報の塊ですしね。土地を行政がもっているところが一番早いです。

塚本──ただ、行政の土地は仮設住宅で占められていて、これがまた使えないんですよ。
10月の意見交換会はどういうものだったんですか。

石塚──鮎川では意見交換会が2回あって、10月15日の1回目にはY-GSAは行けませんでした。10月27日の2回目の時には行くことができて、翌日が現地踏査でした。小嶋さんと城戸崎和佐さんも一緒に行って、十八成と一緒に行いました。

塚本──その時のことは覚えていますか?

小嶋──鮎川の場合、高台移転の候補地がいくつもあったので、それぞれについて踏査とヒアリングをして検討しました。その頃はまだあまり戦略はなく、住民からの反応を聞き取っていました。もっと後には、移転を希望する住民の数が少なくなり、結果として小さな高台集落が点在する状況になりそうだったので、それは持続的ではないだろうということで、東北大学の災害科学国際研究所の平野勝也先生という土木計画の専門家と一緒になり、そうならない方向性を考えるようになりました。

大西──その時は、住民へのヒアリングや行政側へのヒアリングで候補に挙がっていた土地を模型化してみて、さらにそれぞれの場所についての意見を伺っていたという感じです。たとえば、ここは水が出るとか、ここは海が見渡せていいなどといった感想を伺った。漁師さんは基本的に海に近いところに暮らしたいと思っていて、だから浜に近いところが人気なんじゃないかと私たちは思っていたのですが、希望を集計してみると実際は違っていて、私たちがあまり良くないと思っていた場所の人気が高いなんてこともありました。

塚本──住民の方々は高台が陸の孤島になるのをとても嫌がっていて、そのことも判断基準になっていたようですね。
私たちの担当した浜では少し状況が違っていて、最初の意見交換会で、住めなくなった低平地を買い上げると市が言ったのです。しかし住民は、その値段がいくらかなのかをずっと気にしていて、それを教えてもらわない限りは何も決められないと言って、なかなか進みませんでした。

小野田──もともとは値段が付いていた土地ですが、津波が襲って泥だらけになったから、ほとんど使用不能で、どのくらいの値段が付くのかは誰もわからないという状況がありました。
2012年の3月か4月に、不動産鑑定士の試算をもとに県が買い上げ価格の基準を出しましたが、それまでは値段を示せませんでした。市場価格の約7割から8割で買い上げる方針になったのですが、そこまでにはかなりのタイムラグがあった。ただ勇気ある自治体は、県の基準が出る前にだいたいの価格を示して、住民に自力再建を促しています。東松島と七ヶ浜はそういうことをやりましたが、その段階で価格を出しておかないと、みんな他の場所に移り住んでしまうと踏んだからで、それは首長ら自治体幹部が非常に賢明だった。と同時に、住民と行政の間に了解が存在しやすい小さな自治体だからできたことでもあります。石巻市は規模が大きく、価格を事前に提示したかったのに出せなかった。

塚本──鮎川ではそうした意見は出なかったですか?

小嶋──鮎川ではそこまでストレートな意見はなく、十八成の方が激しかったですね。その時だったかどうかは定かではありませんが、十八成では、1軒あたりの造成に一体いくらかけているんだ、そのお金をよこせ、という意見さえ出た。とにかくはっきりした意見が出てくるのですが、鮎川はあまりそういう雰囲気ではありませんでした。十八成では一度だけ住民とお酒を飲んだことがありましたが、鮎川ではそういうこともありませんでした。

小野田──鮎川には漁師もいますが、勤め人が多い街ですからね。漁師はみんな事業主ですから、それでいくらなの?という話になりやすい。

小嶋──十八成は、漁師は一軒でサラリーマンの人が多かった。いずれにせよ、鮎川の難しさはその辺にもあるんですよ。サマーキャンプの時は体育館で大谷川の漁師さんたちと飲んで、若い人たちがたくさん来てくれたのは嬉しいと喜んでくれていました。

塚本──みなさんものすごいサービス精神で、歌うは踊るはで、とても楽しかったですね。
さて、意見交換会の後の検討はどのように進みましたか?

小嶋──年内いっぱいは、候補地にどのくらいの戸数が割り当てられるかを検討していました。あの頃は200戸つくらなくてはならないという状況で、本当にそれだけの数が入るのかが勝負でした。観光エリアをどこに集積させるべきかといったことも同時に考えています。

塚本──土木コンサルからの提案はいつ頃出てきたのですか?

石塚──われわれのところには10月の終わりに最初の図面が来ていますが、内部での検討用の土地利用計画図といったレベルのもので、10月27日の意見交換会では提示されていません。

小野田──石巻市で土木コンサルが図面を描き出したのは9月末くらいでしたしね。

瀧口──意見交換にコンサルは来ていたのですか?

石塚──来てはいましたが、後ろで聞いているだけでした。

門脇──アーキエイドは意見交換会のファシリテート役として呼ばれていました。

小野田──当時、国は復興交付金の額を内定しようとしていて、コンサルに9月ぐらいから簡略図を描かせているんです。ただ、それは住民に見せるためのものではなくて、予算策定のための仮の図でした。国交省が事業の大枠を把握するためのものですね。とはいえ、いつかの段階で住民の意見と擦り合わせていく必要がある。それが10月くらいで、本格的に擦り合わせが始まったのです。

瀧口──では、彼らはアーキエイドがやったことについての説明は受けているんですか?

小野田──それは知っています。サマーキャンプの資料は丸々コンサルに渡していますから。

福屋──後で聞いたら、サマーキャンプの発表会も見ていたと言っていました。

塚本──その後、コンサルからトップカットの図面が出てきて、衝撃を受けましたね。これはいつ頃でしたっけ?

石塚──おそらく11月の半ばです。10月末から11月半ばまでに各浜の図面が順次出てきて、アーキエイドの中では、これはまずくないか?となってきていました。

塚本──半島支援勉強会で各浜の図面を貼り、意見を出し合いましたね。山がばさっと切られて真っ平らになり、巨大な擁壁ができる図面に衝撃を受けて、自然の地形なりに家を建てられないか、知恵を出し合って検討を続けました。そもそも漁村集落はそのように成り立っているので、トップカットをしてしまうと、漁村の風景が壊れてしまうことに危機感をもった。

小嶋──コンサルの図面では宅地も背割になっていて、片側の住宅から海が見えないものになっていました。それに対して鮎川チームでは、細長い宅地割にして住宅は千鳥に配置し、どの家からも海が見えるという提案をした。そこまで進むのに翌年の3月頃までかかっています。その間、月に2度くらいのペースで半島支援勉強会をやっています。渡先生のレクチャーもこの頃に受けました。

門脇──この頃の勉強会では、毎回各チームの高台計画案も貼り出し、進捗の共有と意見交換をしていましたが、そうそうたる建築家が互いにエスキス合戦をやっているようなもので、あの光景は壮観でした。他の建築家の検討案を見ることも普段はありませんが、そのように建築家が互いの手の内をさらけ出し合ったことも、半島支援勉強会の特筆すべきことだと思っています。コンサルの提案を思いっきりひっくり返すようなアプローチをするチームもあれば、コンサルの図面を一つひとつ改善していくようなアプローチをするチームもあって、戦略もさまざまだなと思っていました。

小野田──私は市の内部にいたのですが、その当時は、アーキエイドは切り捨てるべし、という意見と、せっかく入っていただいているのだから協力してもらいましょう、という意見がありました。土木のことを何もわかっていない建築家がちょろちょろ来て、ゲリラみたいなことをやっていて、これは復興を妨げているんだという急進派と、復興計画には民意がしっかり反映されていることが重要で、あの人たちを蔑ろにしたら民意調達が崩壊してしまう、だからあの人たちを大事にして進めなくてはならないという穏健派があり、厳しい戦いでした。もちろん私は後者に属しているのですが、そういうことでしたので、みなさんにも土木のことを勉強してほしいということと、アーキエイドとの取り引きコストを下げるために戦略を共有していただいて、コンサル案との調整案をつくっていただきたいというお願いをしました。それからのみなさんは、素晴らしいシナジー効果を発揮しながら勉強会をされて、土木リテラシーは一気に上がるし、戦略は共有していただけるし、それはアーキエイドというプラットフォームがあったからこそできたものだと思っています。

門脇──あの頃のわれわれは、自分たちが無知であることを知ったのだと思います。寒冷地の道路勾配もわからないし、擁壁の技術もわからないし、そもそも事業や制度の枠組みがわかっていませんでした。

小野田──しかしキャッチアップのスピードはすごく早かったですよ。

瀧口──その勉強会では、先ほどの渡先生のように、専門家を毎回呼んで勉強したのですか?

門脇──渡先生のような方に来ていただいたのはむしろ珍しくて、誰かが土木の教科書を読んできて、それを教え合うという感じで進めていました。

小野田──小嶋さんはすでにある程度の知識をもっていて、貝島さんがすごくマニアックに自分で、後で渡さんという教師をつけて一緒に学習され、そこから一気にノウハウが伝播していきました。

小嶋──私はたまたま群馬の40ヘクタールの戸建て住宅団地のコンペに勝ったことがあったので、少しだけ知ってはいたのですが、土木業界の人からすると基本中の基本のことを、私たちは知らないんだということから共有していきました。道路は盛り土もやむなしだけど、今回は宅地が盛り土になるのは絶対NGだとか、北側の道路は凍結するので、道路構造令が定める勾配の一番安全側をとっておかないとダメだとか。

塚本──われわれは法面に宅地を接させて馴染ませるなどということも考えがちですが、土木としてはそれはやってはいけない。要するに、法面の最下部、つまり法尻が管理できなくなるからで、そういうことをする場合は、法尻と宅地の境界に管理用道路を通す。ただ、管理用道路をつくるにもコストがかかるので、やはり一般道路にした方がいい。だから普通の住宅地では、街区を道路で一周囲んだ上で、背割の配置にする。そういうことから勉強しましたね。

門脇──そうやって勉強しているうちに、誰かが巧妙な解決策を思いつくこともあるのですが、そのうまいパターンをみんなが真似しだすというのも面白いところでした。通常の建築設計だったら誰かがやったことは絶対真似しませんが、知識も経験もないから真似してみて、するともっとうまいパターンが発明されたりする。半島支援勉強会では、一種の集合知のようなものが急速に発展していきました。あの頃が一番キラキラしていましたね。

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半島支援勉強会での高台移転案の議論の様子
それぞれの計画案を壁一面に張り出して議論した

提供=横浜国立大学大学院Y-GSA 小嶋一浩スタジオ

小嶋──普通だったらどんなかたちの住宅でも建てられるように、宅地はなるべく正方形に近い形にするのですが、この場所はやはり高齢者が多いところですから、相互の見守りができるような建物配置が自然とできるような宅地割を考えましたね。われわれは建築の専門家ですので、敷地の形がボリュームを制約することはよくわかっていて、だからこそ望ましい建物の形から宅地割を考えることができた。土木の人にはそういった発想はありません。

塚本──われわれは、街道型というか、町の人たちが自分の家に帰るときに、他の人の家の前を自然と通るような計画を大事にしていました。グリッド状の背割宅地では自分の家の前しか通らなくなってしまいますが、それをできるだけひとつながりにしてあげた方が、見守りやコミュニティといった点でメリットがあるのではないかと考えていました。

門脇──そうした検討はずっとやっていましたね。自力再建が想定される宅地でも、道路付けや土地の形状を少しだけ変えて、敷地の中で確率的にこの場所に建物が建ちやすいという状況をデザインする。それによって住宅が並んだときにきちんと風景が形成される。そういったことも考えていました。

塚本──道が少しでも曲がっていたほうが、勾配屋根が連なって見えて良いだろうといった具合に、町らしさというか、集落らしさのようなものが宅地のデザインだけでつくり出せるのではないかと考えていました。

門脇──ですから、1間を単位とした基本的なボリュームもあらかじめ何パターンかつくっておいて、それを地形模型に置きながらスタディしていました。

小嶋──ただ、建物自体のデザインをがんばることは、何となく禁止ということになっていましたね。

瀧口──それはどうしてですか?

小嶋──私たちの仕事では、普段は敷地が先にあり、その中でどれだけ設計をがんばるかが勝負なので、そうなると建物の差異のゲームになってしまう。アトリエ・ワンと同じ建物をうちがつくったところで誰も買わないわけですし。

塚本──普段はどうしてもそうなってしまいますね。

小嶋──ところが今回の場合は、誰それらしい住宅をつくるなんてことをやるのではなく、普通の家が並んだときに、その並び方だけで空間の質がつくれないかと試行錯誤していました。

塚本──やはりこうした集落の人たちは自立性が高く、自治力もあり、生活のスキルも高いので、それぞれの集落に「家とはこういうものだ」というしっかりとした考え方がある。つまり漁師住宅という型をもっているわけです。家のことなんてあんたたちから教わる必要はない、くらいの気持ちもあるようでした。

小嶋──漁師の集落ではそうなのですが、城戸崎が担当した十八成浜は、限界集落維持には外からの人を受け入れたい。その時にデザインは売りになる。ル・コルビュジエの母の家を並べるのが良いから敷地割をもっと細長くしろなんて言っていましたね。

一同──(笑)

塚本──あれは意外でしたね。

小嶋──鮎川でも同じようなことは言われましたよ。遠洋漁業をやっている方は地中海のことも知っていて、エーゲ海なんて家が白いだけであんなに観光客が来るんだから、建築家はそういうことを提案してくれと言われました。
その後、もう少し漁業集落らしい家のあり方も考えようということになり、半島支援勉強会の中にワーキングループをつくって検討し、2012年3月にはパターンブックとしてまとめました。

門脇──そういう議論をしてくうちに、現在の公営住宅はサラリーマン向けの住宅を基本としていて、漁師向けになっていないだとか、あるいはその土地の家の建ち方を学んだ公営住宅のあり方があるのではないかとか、そういったことを意識し始めるようになりました。

塚本──浜ごとに海で採れるものが違うし、生活を安定させるために養殖も10年ほど前から盛んになっているのですが、浜ごとに適した養殖も違う。そうした独自の生業も住宅に反映させましょうという議論をしていて、貝島が一生懸命やっていました。
2012年の1月16日には、そのようにしてわれわれは住民の意見を聞きながら考えたことと、市や土木コンサルの案を摺り合わせましょうということで、意見交換をする会をもちましたね。

小野田──2011年の7月から、先の震災復興室と建設部がもう少し密に連携していこうということで、両者で復興政策を調整する隔週の会議を始めました。「ステアリング・コミッティ」という会議です。そこで、アーキエイドの検討も取り入れないといけないだろうという話になり、2012年の1月に来てもらいましょうということになりました。

塚本──その頃の鮎川ではどのような動きがあったのですか?

小嶋──支所の会議室に集まって、土木コンサル案の模型とわれわれの提案の模型をそれぞれつくって並べて見せて、意見交換をするという支所主催の会議がありました。鮎川の高台移転地は範囲が広いので、Y-GSAの提案を採用すると測量範囲がまた変わってしまうということで、はじめは抵抗されました。しかし、その後は私たちも彼らのリスクを細かく理解するようになったので、コンサルの人たちもまあ仕方がないかという感じになり、最終案にはかなり反映してくれました。
逆に言うと、支所ではそういう会議もありましたが、私たちは本庁の人とはまったく会っていません。完全に最前線で戦っている兵隊のようなものでしたから、本庁の様子はまったくわからない。それで支所の方ではまとまって、土木コンサルも説得したのに、それが最後は本庁に通らないこともありました。そういえば、別のコンサルと「津波避難モール」という提案をしたこともありました。2011年12月から2カ月くらいやっていたものです。

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土木コンサル案(左)とY-GSA案(右)の造成提案の比較模型
住民との議論を常に意識し、模型などわかりやすい方法をとった
提供=横浜国立大学大学院Y-GSA 小嶋一浩スタジオ

塚本──「津波避難モール」とはどんなものですか?

小嶋──鮎川は観光地になるビジョンを描いていましたが、観光客は港にいるわけですね。そこで、観光地となる低地に津波避難タワーを建築としてつくるという取り組みです。
津波のときにはある高さまで登るわけですが、それが日常的には空っぽというわけにもいきませんので、何かアクティビティを備えたい。また、あそこに逃げれば良いということがすぐわかる視認性も必要。バリアフリーも考えなくてはいけない。津波の威力も受け流さなくてはいけないので、四角いよりは丸い方が良いだろう。そういうわけで、個人的に付き合いのある専門家に津波のシミュレーションまでやってもらって案をつくったのですが、復興交付金に適合しないということで、あっさり消えてしまった。こういう見事な空振りは結構たくさんありますよ。

小野田──国も試行錯誤なんですね。こういう枠組みならお金が出せるんじゃないかと、とりあえずはやったものの、これは難しいなと思ったのでしょう。小嶋さんの提案はきちんとしていたと思いますが。

小嶋──常に最前線にいて、とりあえずあっちだと言われて、ばっと走りだしたら何もない、そんなことがたくさんありました。

小野田──当時は民主党政権だったということも影響していたのかもしれません。民主党政権はアイデアをたくさん出すものの、執行力が弱かった。だから民主党政権の時は、大臣が何度も石巻に来られて、いろいろ話を聞いてくれ、「こういうアイデアがあるのです」と言うと反応してくれるのですが、それがなかなか実行されない。自民党政権になった途端に、そういう政治家がわれわれの話を聞くことはほとんどなくなったのですが、粛々と制度ができて施行されている。

大西──その次には、海辺にあったお家が全部高台移転でなくなってしまい、その場所に県道を堤防道路として通すのだけど、海側のスペースはどうすれば良いかが大きな課題になって、「コアショップ」という提案もしています。鮎川浜にもう一度にぎわいをつくり出していくためにはどうしたらいいのかが継続した課題としてあって、そのなかで津波避難モールの計画があったり、商工会と話し合って提案したコアショップの話が出てきたのだと思います。

石塚──時系列としては、津波避難モールの提案は2012年の1月末くらいまでで、その後に東北電力寮を活用する提案を5月から6月でやっているんです。その時に復興祭に参加することになり、テント膜のテンセグリティ構造を提案した「MOOM」を持って行き、一時的に集まる場所をつくりました。その時に商工会の方々とのやりとりがあり、コアショップの話が出てきたのは2012年のサマーキャンプの頃です。その頃に、おそらく県道と盤の整備をやらなくてはならないという話になっていたのだと思います。

小野田──2012年の4月に東北大学に災害科学国際研究所ができています。災害研の中に、建築(小野田)、土木(平野)、都市計画(姥浦)がチームを組んで、復興実務を統合的に支援する「復興実践学」という領域ができた。そういったなかで、大西さんがおっしゃったような町の拠点を再生するために、県道を嵩上げするという話と、防潮堤をつくるという話と、商店街のための盤─つまり盛土を入れるという話、その3つを足して一体の事業にするアイデアにたどりついた。そこで、その盤の考え方をY-GSAに手渡したところ、その上にコアショップを並べるという提案が出てきました。

小嶋──堤防道路をつくるだけだと、一般的には堤防道路の外側は守られていませんから、堤防道路の内側の海が見えないところに何かをつくることになります。その内側の部分を道路と同じ高さまで上げて、そこに一列にお店を並べていく。このお店をコアショップと言っています。これは塚本さんたちのコアハウスと同じようなコンセプトで、鮎川は自力でお店を再建できるようなところまで来ていないので、まずはコンテナ1つ分ぐらいのお店をつくり、その後ろ側に増築できるようにする。そうすると、すかすかな風景にならず、観光客も戻ってきてくれるだろうという提案でした。

小野田──避難モールの議論をしていた頃には、防潮堤の海側に避難モールを建てて、その間に番屋を建て、にぎわいを取り戻してこうと考えていましたよね。ところが県の方針が変わって、不特定多数の人が集まるものを堤外地、つまり防潮堤の外、海側につくることはまかりならぬ、堤内に入れなさい、という指導を受けた。それが5月か6月くらいのことでした。そうすると、防潮堤の内側の海が見えないところでほそぼそと商店をやらなくてはならなくなる。そんなところに誰が来るんだ? という話になり、それであれば、県道も嵩上げして、防潮堤も寄せて、この二つの山を寄せた間を土で埋めて、その上に何かをつくれるのではないか、というアイデアが復興実践学分野の中で生まれてきました。その上で建築家に提案してもらったのがコアショップでした。

福屋──そういう技術的な話が出ていた時に、2回目のサマーキャンプがありました。他の浜では港の周りの土地をどう利用するかという、津波浸水地の調査をやっていたのですが、鮎川では商業に特化した調査を行っていて、そこから商工会との意見交換が始まった記憶があります。その提案に商工会が乗ってきたので、この話は2012年の年末まで続きましたね。

石塚──はい。鮎川では2012年の5月から「連絡会」という会議が始まって、そこには商工会や漁協などの主要な団体の代表者と、区長さんと、何人か一般の住民も参加していました。この場で商業をどうするのかという議論になり、商業観光について考えましょうという流れが夏にかけて起きて、結局コアショップの検討は年内いっぱい続きました。この会議の主催者も総合支所です。

大西──1回目の連絡会は、すごいいい感じの雰囲気でした。それまでみなさん状況がわかっていなかったようでしたが、こんな計画が進んでいるのだったらもっと知りたかったという反応があった記憶があります。

小嶋──事業をやっている人からすると、高台に住宅をつくるという話だけをしていても元気が出ないわけですね。高台にお店をつくっても誰も来ませんし、海に近い場所は危険区域に指定されると家が建てられませんので、そこには商業を立ち上げないといけないという思いがずっとあるのです。
公営住宅に関しても、牡鹿町時代の公営住宅が鮎川にはあるのですが、それがかなり古いものなので、空き家が出たり一部が取り壊されたりして、歯抜けの状態になっている。そのすき間にもう一度建てられるよねという話は最初のサマーキャンプの頃から出ていたのですが、宅地割が小さくて、斜面地にひな壇造成になっているので工夫しないと家が建たない。その検討も初期にはやっていましたが、僕らが入る余地は全くない。今ではこれも実行され始めているようですが、どんな計画で進んでいるのかはまったく知りません。

塚本──こうした検討も鮎川に支所があるからできたことなのでしょうか。支所があるというのは大きいですね。

小嶋──われわれは御用聞きのようなもので、支所はいろいろ材料を投げてくれるので、それを料理して、図面や模型にして持っていくわけですが、その後は何も起こらず、その後どうなったかも言ってくれない。そういうことばかり続きました。

塚本──そういうことがあったので、結局アーキエイドは石巻から釜石へと活躍の場を移すということになりました。要はアーキエイドの集団移転ですね。

小嶋──発達段階ぐらいの言語しか使えなかったとはいえ、みんな一生懸命やって、しかしその努力があまりにも報われない。そうした中で、釜石の半島部が手付かずで、もう少し設計的なことができそうだということだったので、引っ越すことになりました。

石塚──そうですね。最終的にはそうなっていきました。荻浜を担当した法政大学を中心として、公営住宅のモデルの検討もして、市にも見せましたが、それも後にはつながりませんでした。

門脇──あるところで、土木コンサルからの図面は見られるものの、そこに対して意見が言えなくなってしまいましたね。あれはどうしてだったのでしょうか。

小野田──それは高台移転の計画が事業化ベースで動き出したからですね。民意調達が終わった段階で、土木は事業化ベースで復興庁との調整に入る。そうすると、もう住民の意見は聞いたから、あとは復興交付金に合致するかたちに調整することが業務になってしまう。もしくはボーリング調査や現調の結果に基づいて、実際の図面と合わないところを調整するなどといった、現実的な検討に入ってしまう。つまりアーキエイドとはコミュニケートしなくてもいいぞ、というモードになる。

門脇──それが2012年度くらいまでの話でした。

塚本──高台移転の検討をしていた頃、小嶋さんは、公金を使うんだから、という趣旨のお話しをすごくされていましたよね。つまり土木にかけるお金と建築にかけるお金のバランスの話です。あの話を、ここでもう一度聞かせていただけませんか。

小嶋──鮎川に関して言えば、コンサルから出たトップカット案では、搬出土量がとても増えます。さらに、巨大な法面をつくるので、その安全確保のために土木工事の費用がすごく増える。土木の人たちは、ある性能を確保するために必要なものであれば、底をついているはずの国の貯金箱からいくらでも平気で出そうとする。しかし、それはおかしいんじゃないかと思います。同じ性能をより合理的な方法で確保することは当然考えられて、土を減らせば工期も早くなるはずです。ところが、普段やっていないことをやると手間も時間もかかるから、それはできませんと彼らは言う。しかし、限られたお金で何を達成すれば良いかを考えることこそ、私たち建築家が普段やっていることなので、われわれからするとそれはおかしい。それこそトータルに鮎川の町の将来を考えないと、土木事業が終わって建築が建ったときに、人が来たくなるような町にはならないと思うのですが、土木にはそうした価値観がまったくない。ただ、最初に言ったように、アーキエイドは住民の側には立つけれども、事業のスピードは遅らせられない。だから決定したことには逆らわないというスタンスでやっていましたから、たとえばオフィシャルな場ではその防潮堤は本当にいるんですか?というようなことは1回も言っていない。私は本心では今でもいらないと思っているし、防潮堤をつくらなければ、たかだか1、2メートルの嵩上げだけだとしても、商売をやっている人なら自分でリスクを取って、商売を始めると思っています。しかし商売さえできないような海が見えない防潮堤をつくると、事業者は何もできないまま飼い殺し状態で老けていってしまうだけになる。そうなってはいけないだろうと思っています。
今回いろいろなことを見てきて、現在の日本という国の活力のなさは、そうした壮大な無駄ともつながっている気がしています。戦後に闇市が立った時代には、決まりを律儀に守って闇市で買わず、結局は餓死した人がいたという都市伝説のような話があるじゃないですか。今の日本は、全員でそういうことをやっている感じがしています。みんなが元気をなくすくらいの膨大なお金と時間を使って、防潮堤をつくっている。一方で、釜石では建設単価が高騰し、被災したRC造の小学校を復旧するのに、RC造だと予算が合わず、鉄骨や木造になってしまうという状況が起きている。土木にかけるお金に比べたら、建築にかけるお金なんてごくわずかであるにも関わらず、です。「出口戦略」という言葉を小野田さんたちから教わりましたが、私は造成をコストコンシャスにやったかやらなかったかを問題にしたいのではなく、その上に結局間に合わせの住宅をつくって、10年後ゴミにしかならなかったら元も子もない。そういうことを常に感じながらやっていました。

 

2回サマーキャンプから最初の建築へ

塚本──2012年には2回目のサマーキャンプをやりましたね。

門脇──その少し前に、漁集という言葉を知って、またびっくりするということがありました。

塚本──ああ、そうでしたね(笑)。

瀧口──漁集って何ですか?

小野田──先ほども少しだけ話に出ましたが、「漁業集落防災機能強化事業」のことです。

門脇──漁港の防災機能を高めるという制度的枠組みというか、事業ですね。だから水産庁が仕切っています。

小嶋──半島支援勉強会に正岡克洋さんという水産庁の方が何回も来てくれて、いろいろ教えてくださいました。

塚本──また正岡さんが、漁集なら何でもできそうに言うんですよね。

門脇──漁集すごい!と思いましたね。当時のわれわれは防集だけしか知らず、低平地を整備する枠組みがないので、すごく悩んでいました。しかし浜をしっかり整備しないと、やはり集落の環境としては片手落ちじゃないですか。それで、どうすればいいんだろうと思っていたら、勉強会に来たSANAAが漁集という制度がありますよと教えてくれました。

小野田──SANAAには宮戸島という奥松島の浜に入ってもらっていました。ところが牡鹿のチームは何かみんなで一緒にやっていて楽しそうだから、それを見た妹島和世さんが、私たちも勉強会に入りたいとおっしゃった。

福屋──妹島さんは最初のサマーキャンプから参加していましたね。

小野田──宮戸島は奥松島の風光明媚なところで、瀬戸内で成果を出されている妹島さんならとお誘いし、担当していただくことになりました。宮戸島には4つの浜があって、いずれも漁師の浜で、とても漁協が強いところです。もちろん防集もやるのですが、彼らの関心事は漁業をどうやって再生するかにあったので、漁集の枠組みを使って海苔乾燥小屋をどんどん復活させるという事業をやっていました。それでSANAAは漁集を知っていたんですね。ですが、漁集自体は宮城県ではあまり積極的には展開されず、岩手県で活用されていました。同じ制度なのに、県によってまったく対応が違った。

門脇──そこで、低平地の活用を2回目のサマーキャンプのテーマにすることになりました。

塚本──2回目のサマーキャンプには、正岡さんもオブザーバーで参加してくださいましたね。

小嶋──ただ、鮎川は小さな浜と比べて関係する人も多く、意見集約が難しいことや、低平地が広いことなど、さまざまな理由があり、当時は漁集事業の検討を行うことが難しい状況でした。だから2回目のサマーキャンプは、漁集がテーマだと鮎川はやることがなくて。それでコアショップをやったんですよね。しばらく半島勉強会は漁集の話題ばかりで、鮎川の話題をする枠は別につくってくれと言いました(笑)。

塚本──裏浜も観光に関心がない人たちばかりで、人口も少なく、水産加工をするような力もなかったので、漁集は張り合いがありませんでした。漁集の対象になるようなことに対して、住民たちがまったく盛り上がらないのです。ですので、2回目のサマーキャンプで得た結論は、谷川浜は純粋漁村だということでした(笑)。

小嶋──鮎川では、特定の住民とはある程度は顔見知りになっていたのですが、やはり人口が多いので、そうじゃない人とはまったく顔が合わせられない。そこで、「MOOM」という膜の仮設構造物を持って行き、駐車場に立ち上げて、その中にいつもの模型とマスタープランを置くことにしました。そうすると、MOOMは目立つので、普通の住民も来てくれました。一番嬉しかったのが、中学生が何人か来てくれたことで、その時初めて子どもと会って話ができました。

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仮設の膜構造建築「MOOM」の中でのヒアリングの様子
MOOMを目印に、多くの住民がヒアリングに訪れた

提供=横浜国立大学大学院Y-GSA 小嶋一浩スタジオ

それほど大勢が来てくれたたというわけではありませんでしたが、こういうものがぱっと現れたということは良かったと思っています。この場所の隣には「牡鹿のれん街」がありますが、それ以外は津波の後に何も建っていないので、もともとにぎわっていたところが夜には真っ暗になってしまいます。のれん街から自分の家に帰ろうとすると、その真っ暗なところを登って帰らなくてはならないですし、お酒を飲むような集まりもなくなってしまった。その状態がずっと続いているので、私たちは、とにかくなんでもいいから早く建つものがあったら良いじゃないか、という提案をずっとやっています。

瀧口──サマーキャンプは、大学のチームごとに別々の場所でやっているのですか?

小嶋──そうです。ただし一斉に半島に入って、成果報告会は一緒にやります。

塚本──MOOMを建てる時にも、人手が必要だということで、みんなで行ってお手伝いしました。

小嶋──鮎川は半島の先端にあるので、他の浜を私たちは通過するのですが、鮎川は何かやると言わないとみんな来ないんですよね。

塚本──このあたりになると漁集も理解していましたし、制度的なこともだいたいわかっていて、アーキエイドの活動と制度との齟齬といいますか、できないことも非常に明解になってきていましたね。

小嶋──鮎川の場合は、漁集はそんなにインパクトがなくて、その後に環境省が半島全体を国立公園化するという構想を立てだして、そちらの方が重要でした。その中にビジターセンターをつくるという構想もあったのですが、牡鹿半島に一つつくるのであれば鮎川だろうという話になりました。

塚本──それが2013年の2月からですね。

小嶋──サマーキャンプの半年後くらいです。この話は今も生きていて、環境省でレンジャーをやっている似田貝諭さんというなかなか面白い人がいます。割と頻繁にやりとりをしているのですが、彼はわれわれが何を目指しているのかを一生懸命理解しようとしてくれている。そこで、環境省の予算を使って、鮎川と牡鹿半島にとって意味のあるものをつくろうという話になりました。
大きな枠組みとしては、金華山道の再生を貝島さんが中心になってやっています。昔は陸路で金華山に参詣するときに、半島の中央の山道を通っていましたが、それが今では廃れてしまっているので、復旧して休憩所のようなものも整備していく。そこで、実際に金華山道をトレッキングすることから始めました。それとビジターセンターを構想するということで、「観光ワーキンググループ」という検討会を半島支援勉強会の中に立ち上げて、千葉学さんと門脇さんとY-GSAで、シニアカップルや若いカップル、家族連れ、企業研修などのさまざまなパターンを想定し、観光ルートマップをつくるという作業をしました。われわれからすると牡鹿にはすごい観光のリソースがあると思うのですが、地元の人は鹿肉を高いお金を払って食べるの?といった感じなので、まったくかみ合っていません。

塚本──(笑)

小嶋──で、牡鹿でのグリーンツーリズム、アグリツーリズムのようなことを考えると、ボランティアがたくさん入る必要があるので、具体的な拠点がいる。それを「ビジターセンター」として施設にできないか、ということをやっています。こういう考え方をすれば、高齢化して人が減るばかりの未来とは違ったビジョンが描けそうで面白いと思いました。また築地のつながりで日本橋の商工会の人が応援しようとしてくれました。そこで、そういう人たちとも会ったのですが、それほど簡単な話でもないので、今にいたるまで具体的な成果にはなっていません。ですが、こういう話に関しては、牡鹿半島は釜石などと比べても東京や仙台から近く、地の利もあるし、そもそも高圧電線がほとんどない半島は珍しいということなので、可能性はあると思っています。
そういう経緯で、ビジターセンターの計画と、ホエールランドの復旧と、お店をなくした人たちのためのテナントモールの計画を三位一体にして、道の駅のようなものをつくれないかと考え、検討を続けています。これは一応実現スキームに乗っているんですよね。

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協議会の要望を落とし込んだ拠点案
市宛の要望書の為にY-GSAが作成した

提供=横浜国立大学大学院Y-GSA 小嶋一浩スタジオ

小野田──はい、これは現在検討中です。半島では公設民営の拠点をつくろうと考えていて、小嶋さんのところで描いていただいた絵をベースに、大手設計事務所に発注して図面の精査や事業参加の計画をしています。今はそれを運営するまちづくり会社を準備しているところです。これはアーキエイド代表理事の犬塚恵介さんがすごくがんばってくれて、ばらばらになりかけていた商店街の人たちを束ねて、近々まちづくり会社が結成される予定です。あとは市を動かして、その事業化のために、復興交付金を確実につける方策を練る段階まで来ています。今、とても簡単に説明をしましたが、ここに来るまでにそれぞれのパートで大変な努力があり、さまざまな課題との格闘があり、ようやくです。

塚本──コアショップの提案は結局どうなったのですか?

小嶋──コアショップというアイデア自体はなくなりましたが、商業の拠点をつくるという計画はこの事業に統合されています。話が進むうちに、自力で商店を建てると言っている人が1軒になってしまったこともあります。みんなテナントとして入りたいということですね。
ただ、その運営を市がずっとやってくれるわけではありませんから、まちづくり会社とかつくらないと無理ですよという話になりました。その前段階で、2013年度には鮎川港まちづくり協議会という事業者だけのまちづくり協議会をつくって、1年間やりました。こういった方向づけをした背景には、協議会をつくって、とにかく住民の声として上げていかない限り何も動かない、と福屋さんたちに言われたためでした。そこで、商工会と観光の人たちを中心として、漁協にも入ってもらって協議会を始めました。そこでは主に、この「拠点」と言ってるところをどうするか、という議論をしました。ところが、拠点の計画なんてわれわれが勝手にやっているものだと言って、反発する人もいた。計画は最後までまとめたのですが、最後の協議会でひっくり返されて、われわれが描いた絵を一切付けず、抽象的な絵だけの資料を市に提出するということになりました。1年間かけて、市と市長を経由して、補助金の話もしながら、実動部隊としては萬代基介さんが中心になってY-GSAでやっていたのですが、これもとても悔しい思いをしました。今は少し巻き返して、半分ぐらい復活しているのですが。

萬代基介──そうですね。ずっと検討を続けてきて、絵も描いて、それが突然、最後にひっくり返されてしまいました。その後、災害研の方々と犬塚さんも一緒にがんばってくださって、何とか巻き返しつつあります。

塚本──「ひっくり返された」というのは、結局どういうことだったのですか。

小嶋──協議会の正規のメンバーでない人たち、つまり住民ではない方々から、強烈な横やりが入ったのです。その意図もあまりよくわからず、小嶋は出ていけと言っているのかもしれませんが、いずれにしても意図がなかなか読めなかったです。

小野田──結局は「建築家が何かをつくりたがっている」と思われたところがあるんでしょうね。もちろん小嶋さんたちは生業のことなども考えて、産業も含めた環境の再生を目指していたわけですが、シンボルをつくりたいだけじゃないかと誤解されたところがあるのだと思います。犬塚さんにはそのあたりを一つひとつ丁寧に説明してもらって、みなさんの考えを整理してもらいました。

塚本──なるほど。それは2014年になってからのことですか?

小嶋──そうです。2014年度の話です。ただ不本意なのは、私たちは建築なんて設計していないんですよ。

一同──(笑)

小嶋──せいぜい、室外機や湯沸かし器はみっともなくて海側にも道路側にも並べられないから、建物の隙間にサービススペースをつくりましょうと言っていたくらいで。補助金の交付を受けるための提案なので、デザインに見えるようなことはあえて提案していませんでした。こんなレベルで建築家がデザインをやっていると文句を言われたら、悲しくなります。

塚本──そのまちづくり協議会では、Y-GSAはメンバーとして位置づけられているということですか?

石塚──小嶋先生は顧問です。

小嶋──結局、住民を集めても土木コンサルは全然コミュニケーションできないので、私が支所長の隣に座って説明をしています。そういう意味ではアーキエイドらしく、みんなに対して町の将来の話をしているつもりで、建築家として建築の話をするときとは違った角度で取り組むことが支援だと思っています。ですから、それで反発があったというのはなかなか難しい問題です。そもそも、地元は私のことを学識としか思っていなくて、一度だけ、5分か10分くらい自分が設計した建築を見せたことはありましたが、それまでに「小嶋はこういう建築を設計している建築家です」なんて話は一度もしていません。
それを巻き返してくれたのは犬塚さんなのですが、彼は1年間、週末は鮎川に行くということを続けていましたから、僕なんかとはまったく違うところから鮎川に入り込めていて、町の人たちとの重要なコネクターになってくれている。もちろん犬塚さんはそういうことを狙って鮎川に通ったわけではないのですが、結果的に今回は大変ありがたかった。この冬までアーキエイドの事務局で広報をやってくれていた田中由美さんも、じつはまちづくり協議会の専属スタッフになることになったそうで、長い時間をかけてやってきた活動が、少しずつ地元にも浸透するようなかたちに結びつきつつあります。

塚本──それは素晴らしい。

小嶋──だから、今までやってきたことは、そういう意味ではすごく育ってきていますので、これだったらあと何年かしてまた鮎川に行っても、まあ通っていてよかったのかなと思えるのかもしれません。
他にも、漁業関連施設は堤防より海側につくれるので、番屋のようなものを大西さん、萬代さんがつくるというプロジェクトが始まっています。このプロジェクトもこれまでのつながりから生まれたもので、ほんとに小さい建築ですけど、できつつあります。やはり人と人とのつながりは、町を動かしますね。

萬代──じつはこのプロジェクト、大西さんがプレキャンプの時に怒られたと言っていた方から、大西さんのところに「何か建築を建てるんだけど」という相談が来て、始まったものなのです。その時、大西さんはY-GSAを辞めた後で、僕がこの鮎川浜に入っていたので、一緒にやりましょうという話になりました。番屋といっても、ただその漁師さんの作業場所をつくるのではなくて、もう少しこれからの観光や漁業の未来にうまくつながっていくような建物にしたいという話をしています。ちょうど漁業と観光の間くらいに位置する敷地に、そういう建物を設計しているというわけですね。

大西──今までの鮎川浜では漁業と観光業が完全に分かれていたので、両者は港湾のエリアを争っていたくらいの関係だったようです。ですが、低平地の使い方を考えていたときに、鮎川の未来を考えていくには、お互いが協力し合うこと、そのために観光と漁業の双方の拠点になるような場所が必要だよねという話を、その方と話していたのです。それは夢みたいな話だったのですが、その夢が本当に実現できるかもしれないということで、声をかけていただきました。

福屋──今はその場所の整地がだいたい終わったという段階ですよね。

萬代──そうですね。1メートルくらい嵩上げすることになっていて、それがだいたい終わったところです。商業地の方は、5メートルほど嵩上げしなくてはならないので、漁業者としては商業者より先に立てられそうだということで、嬉しいんじゃないでしょうか。

塚本──なるほど。やっぱりライバル心は残っているのですね。

一同──(笑)


萬代基介建築設計事務所による「おしか番屋」
本インタビュー収録後の2016年2月に竣工した

提供=萬代基介建築設計事務所

塚本──いろいろなプロジェクトがどこからかやってきて、その多くはやっているうちに何にぶち当たって、言葉は悪いですが潰れてしまったわけですが、それでも続けていくことによってできあがってきたものもある。そこではやはりネットワークがうまく機能していて、捨てる人もいれば、そのネットワークを通じて拾う人もいるというわけで、アーキエイドらしいですね。捨てる神あれば拾う神ありということですかね。
そのネットワークが、だんだんとプロジェクトを実現させるようなものに変化してきていることはよくわかりました。ここまでで4時間ほど話していますが、釜石の話はまだ始まってもいませんね(笑)。

小嶋──アーキエイドはネットワークですから、その話は別の方にしていただくことにしましょう。私が最後にぜひ言っておきたいのは、結局活動を開始してから4年以上経っているのに、まだ何も建っていないということです。
サマーキャンプに行った頃は、1年後くらいには何か始まりのものができはじめていると思っていたのですが、そういうスピード感ではまったくありませんでした。結局は日本という国の制度の限界だろうと思います。同じ様な津波に襲われたチリでは、あのエレメンタルがコンペに勝って、防潮堤のつくり方から何から全部提案して、住民を巻き込んで、実現させてしまっているわけですからね。その活力の違いのようなことを、住民の方々はどのように見ているのだろうと思うことがあります。

小野田──でも、何が起こるかわかりませんからね。4年が経ったからこそ、われわれが得たものが何かも見えてきたわけですし。

塚本──大学のゼミもこんな感じですしね。それもアーキエイドらしいのかもしれません。


小嶋一浩(こじま・かずひろ)
横浜国立大学大学院Y-GSA 教授/CAt

大西麻貴(おおにし・まき)
元 横浜国立大学大学院Y-GSA 設計助手/o+h

萬代基介(まんだい・もとすけ)
横浜国立大学大学院Y-GSA 設計助手/萬代基介建築設計事務所

石塚直登(いしづか・なおと)
横浜国立大学大学院 博士後期課程

* 所属はインタビュー当時

2015年4月24日 CAtにて
記録:林咲良, 佐道千沙都,中村衣里,國澤尚平,西村朋也,門脇耕三
構成:門脇耕三
初出:『アーキエイド|5年間の記録』(発行:一般社団法人アーキエイド,販売:株式会社フリックスタジオ,2016年6月発行)
* 本インタビュー記事は、初出の文章に一部修正を加えるとともに、タイトル・図版を追加し、再構成したものです。なお、『アーキエイド|5年間の記録』には、本インタビューを含む10本のインタビュー記事が収録されています。

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