【レポート】「なりわいとしての漁業」石黒由紀

日本のお魚は美味しい。

震災前、東北には多くの漁港、魚市場や水産加工工場があり、全国から加工用の魚が集まってきていました。東北の震災からの復興にとって漁業は非常に重要であり、石巻魚市場の社長、須能邦雄さんは、そのキーパーソンとしてリーダーシップを発揮し日々奮闘されています。眼光のきりっとした方で、早口なのに淡々とした聞き取り易い口調で、専門的な内容を素人にもわかり易くお話しいただきました。

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■ 日本とアメリカ、ロシアの漁業の違い
大洋漁業(現マルハニチロ)に在籍中にサケマス漁船団の船団長を努め、77年にアメリカの二百海里経済水域によって操業が限定的になると、シアトルに三年、サハリンに三年駐在し、技術指導をするとともに、日本に高級サケなどを輸出する合弁事業に取り組んだ。
アメリカ、ロシアには沿岸漁業はなく、大型船による、タラ中心の白身やサーモンなどの限定された魚種を捕獲の対象としていた。また、魚の体内の卵などの副産物には全く興味をもっていなかった。
対して、日本の漁業は沿岸での養殖、小型船によるきめ細やかな漁業や、魚の習性によって多様な漁の方法(底引き網、刺し網漁、はえ縄漁等、)があり、魚種による産卵の季節に配慮した捕獲時期の配慮、骨の多寡による加工の方法など、食べる側の人間の味覚にまで配慮した工夫がある。
海外での駐在中には、バンクーバーのフレーザー川でのサケが川を上る前の、栄養を蓄え脂がのっているタイミングや捕獲場所などの技術的なことを教えると同時に、加島屋などのキングサーモンを使った高級シャケフレークの流通や、海外の魚のすり身を利用したカニカマの開発、など、規制の中での可能なことを模索していた。

■200海里経済水域をめぐるアメリカ、ロシアの社会的背景
須能さんが海外駐在していたのは、経済水域を二百海里に広げる、と1977年にアメリカが一方的に宣言してから、88年に完全にアメリカの200海里以内の操業が不可能になるまでの間である。(ちなみに、海の1マイル(海里)は1852m、陸の1マイルは1609m)
その時代、アメリカは、ベトナム戦争の復帰軍人の働き口となる新しい産業として漁業・水産業を興そうとしていた。なので、アメリカ人の漁業従事者はパートが多く、誰でもできる仕事の形態であることが必要とされ、専門技術を熟練していくことが少ない。また、漁業を推進し融資している銀行の後押しによって魚を捕りすぎて、自然保護団体との対立もあった。
ロシアはゴルバチョフ時代に宇宙戦争の技術開発に負けたので、資本主義経済を取り込む一端として漁業が必要とされた。社会主義の背景があり、「出来高」の概念がなく、ノルマをは果たせばよいなかで人々のやる気をおこすようにノルマを低く設定するので、漁業の技術は高まらなかった。二百海里の規制の中で、スケソウタラを海洋上で取引、購入し、ペリメニというロシアの水餃子のようなものに魚を利用して、外貨を稼ごうとした。

■ 日本人と魚介類
第二次大戦後、アメリカの小麦を日本に買わせる思惑があり、某教授がカッパブックスに「日本人が馬鹿なのは米ばかり食べて小麦を食べないから」と書いてパン食ブームが起き、米の消費量の回復が遅れたが、魚介の消費量は順調にのびてきた。しかし近年では、「日本人は健康なのは肉食ではない低脂肪の食生活があるから」、と海外で魚食が注目されて消費量が増えている一方で、日本では魚離れがすすみ、消費量は減ってきている。
漁獲量としては、海流の変化や産卵期における季節はずれの寒波などの自然環境の変化による増減がある他に、人為的に資源として適切な管理の努力がされている。日本では昔から漁業は産業ではなく、生活と連続した「なりわい」であったため、共同体の存立のために、水産資源を利用する漁業者自らが自主的に管理していく思想が醸成されており、世界に類を見ない資源管理型漁業が発達・普及してきた。従来は、主に入口規制(出漁船数、時間、曳網回数、漁場、漁獲物の体長など)によっていたが、管理が甘く効果が上がりにくかった。200海里時代の到来により、欧米を中心に総漁獲量規制(TAC)制度が徐々に浸透し、日本でも、出口規制(港に水揚げされる漁獲物の量を規制)による資源管理も行われるようになった。しかし、安易な早い者勝ち式のため、乱獲につながる問題も引き起こしている。予測が困難な規制の数字を根拠あるものにするために、日本には各県毎に水産試験場があり、きめ細やかな研究が行われている。海外で科学的な研究が進んでいるのは、韓国と台湾である。

■ 東北の漁業の復興のむかうべき方向
今回の津波で壊滅的な大きな被害を受けたのは沿岸の養殖や小型船で、10トン以上の大型船は出漁の日で沖にでていて船は大丈夫だった。石巻漁港は、桟橋が地盤沈下、魚市場も屋根が崩れるなど機能不全に陥った。
西側の沈下が少ないところから整備を始め、仮設テント1基のみの市場で7月12日に水揚げを再開。水揚げ量が増える9月からの底引き網漁に備え、テントを2基増設した。(11月までに本港の一部に仮の屋根が設置される見通し)
これまで400トンの水揚げ量だったところ、営業を再開した7月には2~3トン、現在は40トンくらいまで回復した。冷凍物も9月から復活し、活気が戻ってきている。

須能さんとしては、単に元に戻す復元ではなくて、より改善された復興をめざすのが望ましいと考えている。
1)現代のニーズにあった世界に通用する水産加工品の開発。
2)流通も含めた六次産業化の推進。(ただし、商社が魚を捕れるようになると漁業者がつぶれてしまうので、現在の漁業者の地位が確保された一体化が重要)。いまは様々な規模が混在しているが、適性規模への修正もこの機会にできると良いと思っている。ちなみに「漁業」は捕獲のみで水産庁、「水産業」は加工、流通、なども含み中小企業庁の管轄、という違いがある。
3)ハードとしては、200m角くらいの街区を国が購入か借地をして、1F駐車場、2F加工場、3F事務所、ような施設を、国がつくってリースする方法がよい。(ただし、もう自力でつくった人などとのバランスがある。)政府に何度かお願いしているがいまのところ反応はない。
国は特区として漁業権の開放や漁港の集約を提案しているが、日本では、漁業は生業(なりわい)であり産業ではないので、外国の様に合理化するのは難しいのではないかと考えられる。儲け主義で価値判断さされると生産者としての責務を果たせなくなり、価格安定ありきとされると、不漁の時に収入がなくなってしまう。

■ 東北の漁業復興に向けて、個人が支援できること
消費者として魚をもっと食べてほしい。そのためには、被災地の漁業者は、風評被害に対しては産地が責任もって放射能汚染の測定を徹底して不安を取り除き、安全性をアピールしたり、魚のおいしい食べ方、気軽な使い方をプレゼンする努力が必要。
被害の大きかった養殖、沿岸の零細漁業者の状況は、把握しきれていないけれど、各地から寄付される漁具や小型船を集めて運んでくれる動きもあるので、それらに支援する手だてもある。細々と地道に復興しているので、もし現地に行かれるようであったら、声をかけて励ましてほしい。

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最後は須能さんお得意の相撲甚句の唄い込みで、会場は遠い彼方の海の響きにつつまれての締めとなりました。

復興現場の方の存在感と肉声はまさにリアル。現代の東京にはこんなリアルなものはなく、須能さんのお話はそれにふれることの出来た貴重な経験でした。世界中が日本がどのように震災から復興するか注目しているいまこそ、日本の漁業の底力の見せ所ではないかと思います。復興迄の長い道のりを気長に地道に応援したいと改めて思いました。

おまけ
被災地の地元の方々の生の声の面白さもさることながら、話の流れにあわせて絶妙にプロジェクターに提示される堀井さんのネット情報注釈がとてもタイミングよく、注釈つきのライブ対談としても必見です。

石黒由紀
石黒由紀建築設計事務所・代表

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